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蜷川さんと関数ドミノと勝村さん

2017年10月06日
私、家帰って、『関数ドミノ』のパンフレット、勝村さんのところ読んで、号泣したんですよ。
「蜷川さんがいなくなって、ちょっと迷子になってる時期だった。」
というところを読んだら、堪えきれず。

蜷川さんについてのことで、勝村さんと自分を比べるのはあまりにもおこがましい。だけど、「迷子」という感覚だけは、この人と共通しているのかもしれない。勝村さんはきっと私よりもっと先で、私は私が立っている場所で、蜷川幸雄がいなくなって「迷子」になりました。

ここ最近、勝村政信に10数年越しにどハマりして思うのは、この10数年観てきた蜷川さんの舞台が、いかに凄まじまかったかということで。蜷川さんがいなくなって初めて「あれ?シェイクスピアや、寺山修司、唐十郎、トム・ストッパード、清水邦夫、ギリシャ悲劇も何もかも、私、これからどこで見ればいいの?」となって(本当は色んなところで上演してるよ)、「こんな多種多様な戯曲を何年も何年も次々演出し続けて、私も私で何年も何年も観続けて、コレ、なんて大きなモノを観客として受け取ってきたのか……」と気が付いた。

蜷川演出を初めて観たのは、05年『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』。そこからほぼ全作品観続けてきた30代、きっと蜷川幸雄をキチンと観られた最後の世代としての自負が…付き合ってくのが非常に難しそうなプライドが、ふとした瞬間にニョキニョキと顔を出す。

『関数ドミノ』の勝村政信を観ていたら、蜷川さんの舞台を観ている時のような、闘争心、と言えばいいのだろうか、負けてられっかよ、ふざけんじゃねーよ、みたいなガルガルした気持ちが湧き上がってきたんですよね。蜷川さんに煽られてきた心の場所があるんだけれども、そこと同じ場所を勝村さんに煽られた。

『関数ドミノ』という作品は完成度の高い、とても良い作品だと初日を観て思ったけれど、私がこの舞台を何度も観ることで得られるのは、勝村さんを生で見る、っていう幸福感ぐらいで、作品の芯を掴むには一度で事足りるように感じられた。
だったら、あの演劇おじさんに負けない演劇理論を自分も身に付けて、おじさんとも正面から対峙できる観客になる為に時間とお金を割きたい。私が座るかもしれなかった本多の一席には、もっと若い子が座ってくれたらいいな。
好きだからこそ、もっともっとこの人と対等に闘える土壌を目指したい。それもまたあのおじさんに、このタイミングでハマったファンの在り方なんじゃないのかな?欲と闘うのは大変だけど、この道の方が格好は良さそうだ。
私の観客としてのバックボーンには、他の人より遥かに強い蜷川さんの存在がある。きっと勝村さんのバックボーンにも、他の人より遥かに強い蜷川さんの存在がある。



今だって、

「迷子」

だし、ニーナがいないと思うと、今だって不安で泣けてくるし、でもレガシーっつて、立ち上がってくる今の舞台の力強さにも嬉し涙してる。演出が消えない、なくならない、継がれてゆく。仏壇マクベスの圧倒的な演出美、ゴールドシアター、ネクストシアターの存在……この世に身体がいなくなっても、まざまざと立ち昇ってくる「蜷川幸雄」の遺したものたち。

結局、私は役者である勝村さんたちを通じて蜷川幸雄を感じてきたし、なんかもう、今、勝村さんが大好きなのは、蜷川さんと切り離して考えられなくて、そしたらご本人が「迷子」とか言い出すものだから、共鳴したのと可愛さとでキュンとして、泣けてしまったではないか!!



勝村さんが再生と崩壊を繰り返して護っていくだろうものの一部は、私にとっても大切なもの。微力であろうが、私も一緒に護っていきたい。この人に対する好きはそういう好きでした。





っていう、なんていうか告白。
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